服忌(ぶっき)とはなんですか?
「親戚の、〇〇にあたる人が亡くなられたのですが、お正月を迎えてもいいでしょうか?」毎年、年末近くになりますと、しばしば、このようなお尋ねがありますが、ここで「服忌」についてのご質問にお答え致します。
最愛の家族・親族の死を悼(いた)む心
「親戚の、〇〇にあたる人が亡くなられたのですが、お正月を迎えてもいいでしょうか?」毎年、年末近くになりますと、しばしば、このようなお尋ねがありますが、ここで「服忌」についてのご質問にお答え致します。
「服忌(ぶっき)」と「忌服(きぶく)」は同じ意味で、家族や親族などが亡くなったとき、一定の期間を喪(も)に服(ふく)すことです。「忌(いみ)」とは、死を畏(おそ)れ忌(い)み憚(はばか)るという意味で、死のけがれのある間は派手なことを控えて身を慎(つつし)み、その死を悼(いた)み、御霊(みたま)慰(なご)めのための避けられない期間のことで、最も長くて五十日間です。その期間内にあることを「忌中(きちゅう)」といい、「忌明(いみあ)け」とは忌みの期間を終えたということです。「服」とは、忌明け後の期間をいい、忌明けの後も身を慎み、悲しみの気持ちを乗り越え、平常心に立ち返ろうとする期間をいい、「喪中」とは広い意味で「忌」と「服」の期間内にあることをいいます。
ア | 父母・夫・妻・子 | 五十日 |
イ | 祖父母・孫・兄弟姉妹 | 三十日 |
ウ | 曾祖父母・曾孫・甥・姪・伯叔父母 | 十日 |
エ | その他の親族 | 三日 |
オ | 配偶者の親族については、前項を一項づつ繰り下げた日数による。 | |
カ | 本葬・社葬などが右の期間を過ぎて行われる場合は、さらにその当日のみ服する。 |
「服」の期間は、悲しみを乗り越えて平常な生活に戻るための「心のけじめ」をつける期間という意味でそれぞれの心情に委ねられますが、長くても半年位を目安にするとよいでしょう。
勤務先や学校等を休む時の「忌引き(きびき)」を「忌(いみ)」の期間と誤解している人もありますが、忌引きは勤務や授業に大きな支障が出ない範囲内で定められた、休むことのできる日数のことであり、「忌(き)」の期間そのものではなく、一部に過ぎません。
「忌(いみ)」の期間中には、次のようなことを心掛けます。
いろいろと多忙で、対人関係も複雑になってきている現在の生活のなかで、忌明けまでの間、自宅に籠りきった忌みの生活を行う事は不可能です。したがって、以上に示したようなことを基本的な心構えとして、故人の冥福を祈る気持ちが、日々の生活のなかに自然に表れるように「忌」の期間を過ごすことを心掛けましょう。
前述の「忌」の期間は、故人との関係による本人の「忌」の期間であり、一個人としてはその期間が過ぎれば「忌明け」となりますが、同居している家族が亡くなった場合には、葬式を行った家そのものに「忌」が生じることになり、その期間は五十日間です。
神棚に家族が亡くなったことを奉告し、扉を閉め、正面に白い紙を貼って覆い、忌明けまで、お供えやお参りを遠慮します。また氏神の神社にも、身内以外の者を使いにたてて奉告します。なお白い紙は「忌明け」の時にはがし、神祭りも日常に戻します。
その家の主人、または喪家が「忌明け(いみあけ)」をしている場合には、お正月を迎えることも、お神札を受けることも年賀状を出すことも、支障はありません。しかし、「忌明け」していない場合には、小正月または旧正月にします。その際、年賀状のかわりに、近況報告をかねて、「寒中見舞い」を出すことも一つの方法です。
神葬祭、仏式葬を問わず、死後五十日後に「忌明け祓い(いみあけはらい)」を受けて忌明けとなります。「忌明け祓い」とは、家族の死という、この上のない大きな悲しみを乗り越えるための区切りの儀式として「これ以上に不幸が重なりませんように」という祈りと「家内安全」の願いを込めて家や家族のお祓いを行うことです。「忌明け」を迎える時には、事前に神職に依頼して「忌明け祓い」を受けましょう。
最寄りの神社にご相談の上、忌明けのお祓いをお受けになるとよいでしょう。
神道では神事(しんじ、お祭り)を行うときには、必ず最初に「修祓(しゅばつ)」と称して、お清(きよ)めのお祓(はら)いを致します。では、なぜお祓(はら)いを行うのでしょうか。実は修祓とは、「罪(つみ)」と「穢(けが)れ」をお祓いし、お清めして生きる力、つまり「生気」をますます強め、昂(たか)めていくための大切な神事なのです。
日本人は、昔から「罪(つみ)」とは、道徳からはずれたり、法律などを破って社会生活の秩序を乱すといったことだけではなく、風水害や病害虫等の自然の災害にあうことも「罪」であると考えてきました。すなわち「罪」とは、人為によることであれ、自然発生によることであれ、人の精神や肉体、さらに自然現象やものごとが正常(清浄、せいじょう)ではない状態を「罪」と考えてきたのです。
「穢れ」とは、不浄(ふじょう)なものに触れるといったことだけではなく、よこしまなことを考えたり、言葉にすることも「穢れ」であると考えてきました。
「死」はもっとも重大な「穢れ」であるとされています。死ぬことによって、肉体が崩(くず)れてしまうといったことだけではなく、生まれながらにして、神さまからいただいている瑞々(みずみず)しい「気(け、生気)が涸(か、枯)れた」(穢れた)結果、生きる力がなくなってしまったとして、恐れ、悲しむ心から「穢れ」であるとしてきました。
つまり、「穢れ」とは、精神と肉体・物質とを問わず、不浄であることや、気涸(けが)れることによって、精神的にも肉体的にも生命力が衰(おとろ)えたり消滅することをもいうのです。
このようなことから、「穢れ」に触れるということは、精神的にも肉体的にも生命力が衰えたり消滅したりして、人生を充実させることができなくなるということが理解できます。「修祓」(お清めのお祓い)をすることの意義と大切さがここにあります。
「清(きよ)めの塩(しお)」は差別につながる?
神道のすべての祭儀(さいぎ)において行われる「修祓(しゅばつ)」は、国土生成(こくどせいせい)の神であられる伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、黄泉(よみ)の国(死後の世界)から帰ってこられた時、けがれた国に行っていたとして、自発的に禊(みそぎ)祓(はら)え(海や水に入って心身を清めること)をされた「自祓い(じばらい」に始まります。
すなわち「修祓」とは、私たちが自発的に清浄(せいじょう、正常)な心身を回復しようとする謙虚な心の表れであり、さらに「神霊(しんれい)」や「祖霊(それい)」の霊威(れいい)が強まり、昂(たかま)っていただくことをお祈りする神事(しんじ)であり、決して「罪(つみ)」や「穢(けが)れ」に触れていることを下卑(げび)であることとしてさげすんだり、差別をするといった考え方によるものではありません。
「修祓」は神聖性(しんせいせい)と清浄性(せいじょうせい)を保ち向上させようとする、宗教・信仰上(しんこうじょう)の自発的道徳精神の発露(はつろ)なのです。
ちかごろ「お清め」は差別に繋(つな)がるから、葬儀後の「清めの塩」も廃止すべきだ、などと主張する宗教教団もあると聞きますが、このような主張こそは、尊いと崇める「厳粛な御存在」を、みずから汚(けが)し、否定することにもなりましょう。
宗教や習俗におけるお清めの儀式には「塩をまく、水浴をする、香(散香・線香等)をたく・塗る(香水)、茶をかける、油をぬる、紅・丹・墨をつける」等、形態にはそれぞれ違いがありますが、「神聖性」と「清浄性」を保つための大切な儀式・作法として、世界中の多くの宗教や習俗において今なお厳粛に行われています。