第9章 四季の行事

年中行事って、もとはお祭り

一、節分

イワシの頭も信心から?

 節分は、立春・立夏・立秋・立冬の前日を指し、本来は年四回あります。現在では特に、立春の前日の節分のことを指す場合が多くなりました。これは旧暦の時代には節分が年の初めの前日、つまり大晦日とされていたことと、一陽来復して季節が冬から春に移る時節であることから、特別な意味を持つようになったのです。
 節分の行事は、本来宮中で季節の変わり目に行われた年中行事で、これに中国から伝わった毎年の大晦日に鬼を払う悪霊ばらいの行事(追儺(ついな、鬼やらい)が加わり、平安時代頃から行われていました。
 宮中で行われていた節分の行事は、時代が下ると次第に民間に伝わっていきました。節分当日の夕暮れ、ヒイラギやイワシの頭を家の入り口などに挿しておいたり、豆撒きをするようになりました。こうしておくと、鬼(流行病をもたらす邪鬼)がヒイラギの葉のトゲに刺さって痛がり、イワシの悪臭にびっくりして逃げていくと考えられていたからです。これは、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それが家に侵入しないように追い払うためです。
 豆撒きでは、夕方、家の戸を開け広げ、家の主人が炒った大豆を撒き、撒かれた豆を、自分の年齢(数え年)の数だけ食べます。また、自分の年の数より一つ多く食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないという言い伝えもあります。豆を撒く意味は、豆には穀物の穀霊が宿っており、生命の源の象徴と考えられ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがあります。これは、中国から渡来して宮中で行われていた悪鬼・厄神祓いの行事と、社寺が邪気祓いに行った豆打ちの儀式が融合したものとも言われています。
 豆を撒く際の掛け声は通常「鬼は外、福は内」ですが、地域や神社によってさまざまです。鬼を祭神または神の使いとしている神社、また方除けの寺社では「鬼は外」ではなく「内」としているところもあります。

二、お彼岸 

もともとは日本に昔からあった先祖まつり

 春分と秋分の日を、中日とした七日間を彼岸といいます。
 この期間に法要や墓参りをしたり、お寺では彼岸会(ひがんえ)が催されるなど、仏教の影響が色濃く感じられます。しかし、仏教思想とは解釈できない要素が含まれていて、もともと我が国固有の信仰行事が、基調をなしていることがわかります。
 秋田県では春の彼岸に、田んぼの雪の上に家々から貰い集めたワラを積み重ねて燃やす行事があります。これは彼岸の入りの日に行う行事で、盆の精霊(しょうりょう)迎え・精霊送りと同じような迎え火・送り火で、盆の場合と同じような唱え言をいうところもあります。新潟にも彼岸の入り・中日・明けの三回ワラ火を焚き、中日には山の上で一〇八のあかりを焚くところがあるといいます。
 また日の出日の入りを拝んだり、「今日さんむかえ」といって、中日の朝弁当を持って日の出る東の方へ向いて歩いて行き、午後には西の入日に向って帰ってくるところもあるといいます。
 この彼岸の期間に法会や墓参りを行うようになったのは日本独自のことで、その背景には太陽崇拝の原始信仰があったためといわれています。民間には日願(ひがん)日天願(にってんがん)という言葉とともに、彼岸に太陽を追いかける習俗などがありました。
 これらの習俗と仏教が説く西方浄土に往生できるという信仰が習合して、彼岸の行事が行われるようになったと考えられます。信仰の基調をなしたものはあくまでも我が国固有の行事だったのです。

三、お花見

行楽行事?いいえ「春祭り」の原形で大切な神事

 桜は古くから日本の山野に自生していた植物で、日本では花といえば桜と言われるように親しまれてきました。それは桜が、穀物の神さまの宿る木とされてきたからなのです。サクラの「サ」は稲の霊を意味している言葉であるといわれます。例えば稲を植える月を、「サツキ」と言い、苗のことを早苗(さなえ)というように、稲にまつわる言葉にはほとんどといっていいほど「サ」がついています。一方、サクラの「クラ」はお神楽などでわかるように、神さまのお座(すわ)りになる場所と言う意味です。サクラとは稲の霊、つまり稲の神さまのいらっしゃる所、神さまの宿られるとても神聖な木ということです。
 毎年稲作りの作業が始まるのは、桃の節供、つまり旧暦の三月三日、今でいうと四月中旬の頃でした。山に桜の花が咲くのはそれよりやや早い四月初めの頃です。長い冬が終わり、いよいよ今年も稲作を始めようというとき、人々は農閑期には山に帰ると信じられていた「田の神さま」をお迎えするために山に行きました。そこで見たのが、まるでたわわに稔った稲穂のように白い花をいっぱいにつけている桜の木でした。
 人々は、この桜の木にきっと稲の霊が宿っているに違いないと感じて、桜の木にお供えものをして田の神さまに豊作を祈願したのです。こうしてお花見は、稲作と切り離せない重要な行事になってきたのです。

四、お田植え

田植も大切な神事

 伝統的な日本の稲作には、労働とともに神事はもちろん芸能の意味もありました。春の祈年祭(きねんさい)と秋の新嘗祭(にいなめさい)は、稲の生育祈願と収穫感謝のお祭りなのです。
 お田植え祭には、二通りあります。一つ目は、年の初めに神社の拝殿などで種まきから収穫までを演じる予祝行事としての神事。もう一つは、早乙女たちが実際に田に入って田植えをする神事があります。
 福島県内では、国の重要無形文化財に指定された、棚倉町八槻(やつき)の都々古別(つつこわけ)神社のお田植え祭が有名で、毎年旧正月六日に行われる稲作予祝行事です。
 もう一つの、実際に田に入って行なわれるお田植え祭としては、伊勢の神宮の別宮であります「伊雑宮(いざわのみや)」で六月に行なわれるお田植え祭が有名ですが、県内では、会津美里町の伊佐須美神社田植神事が有名です。

五、虫送り

虫を送るって何のこと?

 夏は稲や農作物の大事な生育期にあたり、害虫の発生や、風水害の被害にあう事も多々ありました。昔は、稲作における虫の害は深刻でした。農薬による害虫駆除が行われるようになるまでは、日本各地の農村で虫送りが盛んに行われていました。この行事の対象となる虫は「ウンカ」が圧倒的に多く、被害が大きかった西日本各地では特にさかんに行われました。時期は田植えが終わった五月土用の入りの頃、害虫が発生しやすい七月の頃などで、稲の生育の重要な時期でした。村人たちがその地域の神社などに集まり神事を行った後、松明(たいまつ)を焚(た)き、鉦(かね)を鳴らし太鼓を叩き、大声で唱えごとをしながら幟(のぼり)を立てたりお神札(ふだ)を掲げて、行列を組んで水田を巡って稲についた虫を集め、村境まで送り出しました。
 農村では、害虫を鉦や太鼓などで追い払う虫送りの行事が行われ、都市部では疫病除けと悪霊退散を祈り、山車(だし)や屋台(やたい)・神輿(みこし)などが練り歩く祭りが盛大に行われ、ともに夏祭りの原形となりました。

六、お盆

お正月と対をなす日本に昔から伝わるお祭り

 お盆については、多くの人が仏教の行事と考えているようですが、元来は日本固有の先祖まつりがもとになっています。ところが、江戸時代に入り、幕府が檀家制度を定めて、庶民の先祖供養まで仏式で行うよう強制したため、お盆も仏教の行事と誤解されて、現在に至っているのです。
 我が国では、古くから神まつりとともに、ご先祖さまの御霊(みたま)をお祭りする先祖祭祀が行われ、神と先祖のご加護により平安な生活を過してきました。この神とは、自らとつながりのあるご先祖さまが徐々に昇華(しょうか)されて神となった場合も含んでのご存在なのです。
 年中行事で、お盆とお正月が二大行事として重視されるのも、お正月が神さまを、お盆がご先祖さまをおまつりする行事として、いずれも我々と直接に命の繋(つな)がりのあるご先祖や神々をお招きするという意味を持つからなのです。
 ちなみに、仏教行事のお盆は、『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』という経典によるもので、仏弟子の目蓮が餓鬼道(がきどう)に落ち苦しんでいる母親を救うため、釈迦の教えで七月十五日に安居(あんご、修行)を終えた僧侶を百味(ひゃくみ)の飲食(おんじき)を供えて供養したところ、その功徳(くどく)により母親を含め七世の父母(七代前の先祖)までを餓鬼道から救済することができたという孝行説話に基づくものです。
 仏教が伝来すると、盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事が諸寺院で行われるようになり、当初は僧侶の供養が中心でしたが、その後我が国固有の先祖祭祀と結びついて、ご先祖さまをまつるお盆となりました。
 現在、月遅れの八月十五日前後にお盆が行われますが、いずれにしても、日本固有の大切な「先祖まつり」であることに変わりはありません。

七、十五夜

名月 なぜ中秋なの?

 一般に十五夜というのは、「中秋の名月」と呼ばれている旧暦八月十五日の月のことをさします。中秋の名月と呼ばれるのは、旧暦では七月・八月・九月を秋とし、七月を初秋、八月を中秋、九月を晩秋と呼んだことに由来します。また、この頃になると空がすみわたり、月がより美しく見え、それを眺めるのにちょうど良い時期だからなのです。
 中秋の名月を鑑賞する習慣は平安時代に始まりましたが、この月見が民間に定着するにあたっては、やはりその基礎となる習俗がありました。これが初穂祭(はつほさい)、つまり秋の収穫祭であるとされます。
 春から手を掛けて育てた作物が秋には実り、人々に大事な食料をもたらしてくれます。日本人はこの自然の恵みに感謝してこの時期いろいろな祭を行ないました。特にこの時期に多くお祝いされたのは里芋の収穫で、そのため、月見に里芋を供える風習ができ、この名月を「芋名月」とか「芋の子誕生」と呼ぶ地方もあります。

八、十三夜

なぜ月を見るの?

 日本では旧暦八月十五日だけでなく、同じく九月十三日にも月見をする風習があります。こちらは「十三夜」、「後の名月」、「栗名月」「豆名月」とも呼ばれています。十三夜には、ススキや月見団子の他に栗や枝豆などをお供えします。南九州では、新米で搗(つ)いた餅を供えるところもあります。各地には「十五夜をしたなら、必ず十三夜もしなければいけない」という言葉が伝えられており、片方だけの月見を嫌う風習があったようです。
 十五夜は畑作の祝い、十三夜は稲作の祝いと見ることができます。十三夜の風習は中国にはなく、日本固有のものです。
 お月見は旧暦で行なう行事です。旧暦(太陰太陽暦)は、月の満ち欠けで日付を決めるもので、現在の太陽暦とは月・日の数え方が異なります。そのため両者の日付にずれが生じてきます。従ってお月見の日付(旧八月十五日、旧九月十三日)も年によって一定していません。

九、勤労感謝

秋祭りの本来の意義は収穫感謝

 神社のお祭りは、農耕、特に稲作を中心としており、その年の豊作を神さまにお祈りする「春祭り」。せっかく育ちつつある作物が夏の病害虫や台風などの風水害に遭わないよう、悪霊の活動を鎮め、災害を除くための祭りが「夏祭り」。そして収穫を感謝し神さまに御礼を申し上げ、ともに大いに祝い楽しむのが「秋祭り」といえます。収穫の時期は地方によって違いますので、秋祭りの時期もそれぞれに行われます。
 県内では、収穫に感謝する秋祭りを例大祭として盛大に行う神社が数多くあります。

十、かまくら

もともとはお祭りだったの?

 雪国秋田の代表的な行事にかまくらがあります。この行事はもともと、一月十五日の歳の神(さいのかみ)の祭りに行う左義長(さぎちょう)を指していました。そのとき、物忌み(ものいみ)をするために雪室(ゆきむろ)をつくり、それをかまくらと呼びお籠(こも)りしました。やがて、雪室のみをかまくらと呼ぶようになったのです。
 小正月が近づくと子供たちは高さ幅ともに二メートルほどの雪室を造り、そこの一番奥の正面に神棚を据え水神さまをまつり、甘酒やお餅をお供えし、灯明をともします。
 かまくらの由来については色々ありますが。竈(かま)の形から出た説、神坐・神倉のカミクラが訛(なま)った説が有力です。

十一、お節句(せっく)

何を祝うの?何を祈るの?

 稲作を中心に生活を営んできた日本人にとって、四季の移り変わりはとても大切なものでした。春に籾を蒔いてから秋の収穫を終え、新しい年を迎えるまでの季節の節目ごとに田の神さまをお迎えし農作業の無事や豊作を祈りました。それが五節句やお正月などに代表される年中行事です。  私たちの祖先は、家族が毎日健康でいられることを神さまのご加護と考えてきました。そして節句には、特別なお供え物をして日頃のご加護に感謝し、これからも家族が健康でいられるよう祈りました。桃の節句に飾る雛人形や、端午の節句に立てる鯉のぼりは、そんな家族の祈りを形にしたものといえました。  昔はたくさんの節句がありましたが、現代に伝わる五節句は、江戸時代に幕府がそれまでの節句をもとに公的な祝日として制定したものです。五節句には、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日のように奇数の重なる日が選ばれています。ただし一月一日(元旦)は特別な日と考え、替わりに一月七日の人日(じんじつ)を五節句の中に取り入れています。また、これらはお正月の七草、三月の上巳(じょうし)の桃、五月の端午の菖蒲、七月の七夕の竹、そして九月の重陽の菊と、必ず季節の草や木に彩られるのが特徴となっています。

人日(じんじつ)の節句 七草粥(ななくさがゆ)

 「人日の節句」は、お正月の七草粥としてよく知られていますが、一月七日に行われる七草のお祝いです。古く中国では、元日から六日までの各日に、動物をあてはめて占いを行う風習がありました。元日には鶏を、二日には戌(いぬ)を、三日には猪を、四日には羊を、五日には牛を、六日には馬をというように占っていき、それぞれの日に占いの対象となる動物を大切に扱いました。そして正月七日目に人を占うことから「人日の節句」と呼ぶようになりました。
 日本には、もともとこの日に若菜を神さまにお供えし、それをいただいて豊作を祈る風習がありました。そこに、中国の「人日」に七草のお吸い物をいただいて無病を祈る風習が重なり、七草粥を食べるようになりました。七草粥には、寒い季節を乗り越えて芽を出す若菜の力強さをわけてもらいたいとの思いが込められているのです。

春の七草

 芹(せり)薺(なずな)御形(ごぎょう)繁縷(はこべ(ら)仏座(ほとけのざ)菘(すずな)蘿蔔(すずしろ)

上巳(じょうし)の節句 雛(ひな)まつり

 上巳の節句は、現在では雛人形を飾り、桃の花や蓬餅(よもぎもち)をお供えして、女の子の成長と健康をお祝いする「雛祭り」の行事ですが、昔、中国では三月初めの巳(み)の日を上巳(じょうし)といい、この日に川で禊をする風習がありました。日本では、田植えの前に田の神さまをお迎えするため、人の形に紙を切り抜いた「人形(ひとがた)」で体をなでて穢れを落とし、海や川に流す祓えの行事だったのです。その人形が次第に豪華になり、雛祭りが行われるようになりました。

端午(たんご)の節句 男児のまつり

 端午の節句は、雛祭りが女の子の節句なのに対し、五月五日は鯉のぼりや兜を飾って男の子の成長と健康をお祝いする行事です。
 このとき供えたり飾ったりする、菖蒲(しょうぶ)やヨモギやチマキは邪気を祓うといわれ、菖蒲を家の軒に差したり、風呂に入れたりして魔除けとしました。
 また菖蒲は「尚武」に通じるため、鯉のぼりや武者人形を飾るようになりました。
 「端午」は月初めの午の日を指し、五月に限ってはいませんでしたが、次第に五月五日を端午の節供と呼ぶようになりました。
 五月は、春から夏への季節の変わり目にあたり、疲れが出たり病気になりやすい頃です。また、田植えなど一番多忙な時期に当たるため、これにそなえて十分な鋭気を養っておく必要がありました。端午の節句には、そんな時期を乗り切る知恵が盛り込まれているのです。

七夕(しちせき)の節句 たなばたまつり

 七夕(しちせき)の節句は、七夕(たなばた)祭りのことです。願い事を書いた短冊を結んだ竹や笹が飾られる風景は、夏の風物詩となっています。七夕は、彦星と織姫が年に一度だけ天の川に橋をかけて会うことを許された日という星祭の伝説で親しまれています。こうした習俗は、奈良時代に中国から日本に入ってきたものです。
 日本では、古来お盆に祖先の御霊(みたま)をお迎えする前に、棚機女(たなばたつめ)と呼ばれる乙女が、人里離れた水辺の機屋(はたや)に籠って神さまをおまつりし、それが終わった日に、禊(みそぎ)をする行事がありました。そこに中国から星祭と乞巧奠(きっこうでん、技能や芸能の上達願うお祭り)の風習が入ってきて、七夕という節句行事へと変化してきました。七夕の次の日に笹竹を川や海に流す「七夕流し」は、心身の穢れを流すというお祓いの意味が込められています。

重陽(ちょうよう)の節句(せっく) 菊の節句

 九月九日は、五節句の最後をしめくくる重陽の節句です。この日は九という陽の数字(奇数)が重なることから、めでたい日とされました。ほかに「菊の節句」とも呼ばれ、長寿の花として大切にされてきた菊の花をお供えします。
 宮中では、菊の花びらを浮かべた菊酒をいただく節会(せちえ)が開かれ、民間でも被せ綿(きせわた)といって前夜に菊に綿をかぶせ、九日の朝に露で湿ったその綿で体を拭いて長寿を願う行事が行われました。
 現在、家庭で特別な行事を行っているところは少なくなりましたが、この時期になると各地で菊人形祭や菊花展が開かれます。

コラム

新暦と旧暦はどう違うの?

 私たちにとって一日の変化は昼と夜の繰り返しで認識でき、ひと月の期間は月の満ち欠けによって計ることができました。一方季節の変化は太陽の角度と日照時間の変化によって知ることができました。つまり、一ヶ月は文字通り月の変化で、一年は太陽の変化で計ることができたのです。そこで月の満ち欠けを基準として作られたのが太陰暦で、太陽の一回帰を基準としたのが太陽暦です。中国では太陰暦を基本としつつも太陽の運行に合わせて季節の変化を調整する太陰太陽暦がつくられました。
 我が国に暦が伝えられたのは、持統天皇四年(六九〇)で、その後平安時代の貞観(じょうがん)四年(八六二)から江戸時代までの一千年にわたり、我が国の国情を加味した宣明暦(せんみょうれき、太陰太陽暦)という暦が使われてきました。
 それが今日のように変わったのは、明治五年十二月三日を明治六年一月一日とする太陽暦(グレゴリー暦)を採用したときからです。しかし、この暦の採用によって従来の季節感からいえばまだ十二月なのに正月の行事をしなければならないなど、暦日が約一ヶ月早められたため、全ての年中行事がそれまでの季節感とはかけ離れたものとなってしまいました。そこで、お盆の行事のように従来の季節感に合わせるために、旧暦で七月十五日であったのをひと月遅れの新暦八月十五日に移動して行事を行う場合もでてきたのです。お月見の項でも説明しましたが、十五夜・十三夜は旧暦で行うために現在の暦とはズレが出てくるのです。

旧暦と新暦の違いを数字にしてみると

旧暦 一ヶ月が二九、五三日 一年は三五四、三七日
新暦 一ヶ月が三〇、四三日 一年は三六五、二四日
その差 約十一日 三年で三三日

 月の一年を太陽年三六五日にあわせるためには、十九年に七回同名月を加え、一年を十三ヵ月にする必要があります。この挿入月を閏月(うるうづき)といいます。二、三年毎に一年が十三ヵ月の閏年が入ります。太陰暦は、この閏月を設けることにより、太陽暦との誤差を調節しているのです。