神社庁報

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合祭殿竣功奉告祭斎行

2021年9月21日

9月14日、午前11時より双葉郡双葉町大字中野に鎮座する八幡神社(高倉洋尚宮司)に併設された「合祭殿(遥拝殿)」の竣功奉告祭・記念植樹式が厳粛に斎行されました。

~合祭殿(遙拝殿)併設の経緯~
 東日本大震災に伴う原子力災害の影響により、帰還困難区域に鎮座し、立入りが困難な神社、避難指示が解除されても氏子の帰還が進まない地区の神社、また津波により全壊、流失した神社など、本来の鎮座地においてお祭りを行うことが困難な状況にある神社が本県にはいまだ数多く残されています。
 合祭殿(ごうさいでん)は、未曾有の災禍からの再生と、神社信仰を次世代へ継承することを目的に、こうした神社を遠く離れた場所から参拝(遙拝)するための礼拝施設として八幡神社に併設されました。ここ中野地区の八幡神社は大津波で全壊し、その後原子力災害により立入りが制限されましたが、国営の追悼祈念施設「復興祈念公園」の敷地内に再建が許された唯一の神社であることから、遙拝のための施設を併設する場所として考え得る最適地であり、この建立は福島県神社界の長年の悲願でありました。
 合祭殿の性格は、各神社の遙拝施設として供されるとともに、祭礼を行う場として活用する際は、その都度、降神という御祭神をお迎えする形式で斎行し、各神社の御神体をご奉遷(おうつしまつる)するものではありません。
 今後、二十年から三十年と言われる復興までの長い歳月、神社と氏子をつなぐ「絆」の施設として末永く守り伝えてまいります。

 

結びに、丹治正博福島県神社庁長による神社新報への寄稿文を掲載いたします。

「被災神社の信仰継承を託す 合祭殿の竣功を迎えて」 福島県神社庁 庁長 丹治正博

 東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の影響により、再建や氏子が立ち入っての参拝が困難となっている神社が、福島県にはいまだに四十二社存在します。こうした神社の信仰を絶やすことなく未来へ繋ぐ役割を託して建設が進められていた「合祭殿」がこのたび竣功を迎え、去る九月十四日、福島第一原発にほど近い双葉町中野の現地で竣功奉告祭が斎行されました。この模様は、過疎のため神社の護持に悩む地域の先進事例として、当日夕方のNHK全国ニュースでも取り上げられました。

 合祭殿に託された役割 

 読者の皆さんは「合祭殿」と言えば、出羽三山神社の「三神合祭殿」を想起される方も多いと思います。この「合祭殿」も当初の趣旨は、本来の鎮座地でお祭りを行うことが出来ない神社の御分霊を合わせ祀る神社を建立することでした。この基本的な機能が大きく見直されることになったのは地鎮祭の直前のことでした。計画が具体化する以前から、御分霊を躊躇する(合祭殿への参加に消極的な)宮司が少なからずいたことが懸念材料でした。庁長としては、関わる全ての神社と宮司の同意が得られなければ、この事業を進める意味が無いに等しいことは重々承知していただけに、なぜ御分霊を躊躇するのか、どうすれば関係する宮司全員の賛同を得られるのか悩む日々が続きました。しかも当該神社の宮司の多くは避難生活中の者も多く、意志確認は容易な事ではありませんでした。

 しかし、地鎮祭まであと二週間という時期に持たれた会合で、ようやく腹を割った話し合いの末、歩み寄りがなされました。当初、掲げていた御分霊の合祀という形はとらず、あくまで遙拝のための施設(表記は合祭殿)とすること、各神社が祭事で使用する際には、その都度、降神昇神を行う形式とすること、その旨、境内掲示板にも明記すること、したがって対象神社は、東日本大震災、原子力災害で被災し、本来の土地で祭りを行うことが出来ない神社を原則とするが、特に限定はしないこと、との合祭殿の基本的な機能について、神社庁側が歩み寄る形でようやく合意をみることとなったのです。なにが障害になっていたのか、今回で明らかになったことは、合祭殿に御分霊を遷し祀ることにより、本来の神社を復興する意欲が削がれてしまうのではないか、合祭殿にお祀りされているなら、立ち入れない神社を手間暇かけて再建しなくても良いのでは、との空気が氏子間に広まってしまうことを宮司や総代さんたちは恐れていたのです。

構想から十年、紆余曲折を乗り越え

 顧みますと、去る平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災に伴う東京電力福島第一原子力発電所の未曾有の事故の直後、原発より半径二十キロ圏内は放射線量が高い警戒区域として、立入りが厳しく制限されました。当時、この警戒区域の中に取り残された神社は二百四十余社を数えました。福島県神社庁では、将来にわたり、立ち入りが不可能となってしまう最悪の事態に陥ることを懸念して、福島県警察本部の全面的な協力を得て、区域内の全ての神社の御分霊を拝受する前代未聞の神事を決行しました。神社の信仰を途絶えさせないとの思いから、合祭殿の構想は早い時期から検討されましたが、当時は被災者の生活の再建やインフラの復興が最優先とされた時期でありましたし、建立する場所と財源の問題という高い壁が立ちはだかり、関係者の合意形成が不調に終わったことで、この計画は残念ながら先送りされることとなりました。

 この状況が動き出したのが平成三十一年のことでした。福島県復興祈念公園の用地を眼下に見下ろす浪江町両竹鎮座の諏訪神社が、大阪の建設会社の篤志により無償で再建されることが決まったのです。この諏訪神社は大震災発生時に、両竹地区や近隣の浪江町の住民ら約五十人が子供らを抱えて神社の階段を駆け上がって、壊れた社殿の残骸を燃やした焚き火で暖を取り励ましあって救出のヘリコプターを待った、まさに、津波の襲来から被災者の命を守った地域の人々にとって掛け替えのない場所でありました。当初、諏訪神社境内に合祭殿を併設する案が検討されましたが、狭隘で山の上にあり、多くの人々が訪れるには適さないとの理由から併設は断念の止む無きとなりました。

 しかし、諏訪神社の再建決定を契機として、合祭殿建設の気運が再び高まりを見せ始めました。復興祈念公園の敷地内の「ふるさとと人々を結ぶ場」エリアに唯一鎮座する八幡神社(※津波で流出)の再建に光りが見えたことから、八幡神社と一体の形で合祭殿を建設する方針が神社庁と地元関係者との協議で合意されたのです。この合意を受けて合祭殿の建設が福島県神社庁の震災復興事業の一環として改めて計画されました。

 ここ中野地区の八幡神社は、国と県が整備を進めている国営の追悼祈念施設「福島県復興祈念公園」の敷地内に鎮座する唯一の神社であることから、合祭殿を併設する場所として考え得る最適の場所と考え、神社庁と双葉支部、そして八幡神社の三者で協議を重ねて参りました。また、平行して復興祈念公園建設を所管する福島県の土木部、相双建設事務所と交渉を進めた結果、特例をもって本来の鎮座地に再建が可能となりました。また神社に隣接する土地の所有者のご好意により駐車場用地を取得する目処も立ちました。更には、伊勢の神宮御当局の格別のご配慮を得て、式年遷宮の撤却古材の檜のお下げ渡しを賜ることになりました。建設資金につきましては大震災の際に全国の神社から寄せられた貴重な義捐金を原資とした神社庁の被災復興基金を管理する東日本大震災被災復興基金管理審議委員会の慎重審議の結果、四千万円の拠出が決定されました。

 工事にあたっては、大阪に本社を置く住宅メーカー(株)創建傘下の(株)木の城たいせつにお願いしましたが、吉村孝文会長には、神明への崇敬の念殊の外篤く、二年前の令和元年に諏訪神社(前出)の無償再建奉納を賜りました。こうした吉村会長の被災地復興にかける熱意に敬意を表するとともに、この有難いご神縁を大切にするため、本工事の施工をお願い申し上げた次第です。去る五月十四日に地鎮祭を斎行以来、六月二十九日の上棟祭を経て、工事は滞り無く進捗し、八月八日には八幡神社の例祭に合わせ遷座祭と竣功祭が一足先に斎行されました。その後境内各所の整備を進め、合祭殿全体の竣功奉告祭を迎えることとなりましたが、新型コロナウイルス感染症の感染拡大により、福島県に適用されていました「まん延防止等重点措置」の延長に伴い、県外からのご来賓には急きょ参列をご遠慮頂き、県内関係者のみでの祭典斎行という苦渋の決断に至りました。合祭殿の竣功を心待ちにされておられた皆様にはまことに申し訳なく、心からお詫びを申し上げます。

宮脇先生の遺志を継ぐ植樹

 当日は、祭典に続き植樹式が執り行われ、淡路島の伊弉諾神宮から奉納の首陀椎(スダジイ)を始め、大島桜、黒松、タブノキ、ネムノキ、本サカキ、イロハモミジ、オガタマなど約百本が境内に植樹されました。植樹は丹治庁長を始め、八幡神社髙倉宮司、双葉支部宇佐神支部長、ご来賓の伊弉諾神宮本名宮司、アクアマリン福島の古川館長、そして神社庁関係団体長らにより執り行われました。

 植樹全般のご指導を頂いた福島県石川町で(有)仲田種苗園を営む仲田茂司社長は、「幸せ感じる 緑のまちづくり」を経営理念に掲げ、里山植物という地域資源を活用した環境ビジネスを通じ、地域の次の世代に、希望を与えることを目指した企業活動を行っています。地域本来の植生を蘇らせることで、生物多様性の基盤を復元するとのお考えのもと、平成二十三年には、環境省の生物多様性復元事業として伊勢の神宮外宮において実施された「iプロジェクト」に携わったほか、東日本大震災の津波で大きな被害を受けた沿岸部の植樹にも取り組まれ、鎮守の森に代表される「混植・密植型植樹」を提唱し、土地本来の植生をポット苗で植えて環境保全を図る「宮脇方式」の普及に尽力した横浜国立大学名誉教授の故宮脇 昭博士の活動に共鳴し、沿岸地域の植生回復に努めていることでも知られます。私も宮脇先生との思い出が数々ある中、大震災後の植樹事業での出来事が印象に残っています。植樹前のセレモニーで先生が子ども達への樹種の指導をされているその時、「おい、福島の庁長、これから植える苗木の種類を全部言ってみなさい」不意を突かれた私は先生の急な質問に狼狽したことが懐かしく思い出されます。このことが地域の植栽のあるべき姿に理解を深めるきっかけとなり、合祭殿の植樹に活かされることとなったのです。

二つの大震災が結びつけたもの 

 奉告祭当日、御社殿とともに大神輿が参列者に披露されました。この大神輿が合祭殿に寄贈された経緯ですが、今から二十六年前の平成七年一月発生した阪神淡路大震災に遡ります。震源となった場所が淡路島の西北端に位置する旧北淡町の野島断層でしたが、この断層上にあった野島八幡神社は倒壊し、大神輿も大きな損傷を受けました。被災した大神輿は伊弉諾神宮の本名孝至宮司の発願による大修理を経て、東日本大震災で被災した当県の「双葉地方の復興祈願に」との趣旨で寄贈の打診を頂きました。当時、仲介の労を取られたのが前副庁長で、いわき市平菅波鎮座大國魂神社山名隆弘宮司でした。山名宮司は当時を振り返られ次のように述べておられます。「当時は放射線量が高い状況で、双葉でお受けすることは不可能であったが、お断りする無礼はすべきでなく、何とか本名宮司の赤誠にお応えせねばとの一心で、いわき市の県営水族館「アクアマリンふくしま」の安部館長に相談申し上げた」とのことでした。安部館長にはこの願いをお聞き届け頂き、格別のご配慮を以て、同館でお引き受け頂くこととなりました。この大神輿には館内の「縄文の里山」鎮座の祠にお祀りされている伊弉諾神宮並びに茨城県稲敷市阿波鎮座の大杉神社の御分霊を頂き、大震災の年以降、毎年七月に斎行されてきました「千度大祓」の日に小名浜港湾岸を巡行して現在に至っております。

 この度、安部館長には開館より二十年余にわたってアクアマリンふくしまを隆盛に導かれ、大震災の惨禍より見事に立ち直るという多大なご功績を残されご勇退されることとなりました。時折しも、コロナ禍により合祭殿の完成が一年延期となったことから、この機会に大神輿を双葉地方に建立が進む合祭殿に奉遷申し上げることが最善との考えから山名宮司より安部館長に働き掛けがなされましたが、安部館長は合祭殿事業の趣旨に深いご理解を賜り、大神輿の御動座を快諾頂きました。大神輿は、竣功に先立つ八月上旬に神道青年会員らにより、いわき市のアクアマリン福島より合祭殿境内の神輿庫に納められました。寄贈された本名宮司は、竣功祭への参列に合わせて、大神輿との再会と浜通り被災地の現状を視察されたい、とのたってのご希望があり、コロナ禍の中、淡路島から当地まで片道八百四十㎞というご遠路を車でお越しになられました。本名宮司は竣功成った合祭殿と、寄贈した大神輿との再会に感無量のご様子でした。かくて、国生みの神話の島淡路島と、みちのく潮目の海の山河双葉は脈絡を結び得たのであります。

今後の課題

 合祭殿の建立は福島県内神社関係者の長年の悲願でありました。竣功をみた今、私たちは次なる目標に向けたスタートラインに立っています。今後、最後の一社がお祭りを地元で再開し、合祭殿がその役目を終える日まで、神社と氏子をつなぐ「絆」を象徴する神社として活用されることが私たちの最終目標です。それまでの長い道のり、合祭殿が与えられた機能を全うできますよう、被災神社の関係者を励ましながら活用を働きかけてゆかねばなりません。それは、この十年でご支援を頂いた多くの方々に「見える形で成果を出してお応えする」ことにほかなりません。神社庁と、浜通り三支部、八幡神社と手を携えての新たな挑戦は今始まったばかりです。

※神社新報の編集の都合上、新報へ記載される文章とは若干異なりますことをご了承願います。

 

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