第13章 神宮式年遷宮

二十年ごとの日本民族の再生

一、遷宮って、どんなこと?

千三百年の歴史

 神宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)とは、悠久(ゆうきゅう)二千年の時を超え、今もなお清々(すがすが)しい神気漂う伊勢の神宮最大のお祭りです。
 式年遷宮の制度は、今から約千三百年前に第四十代天武(てんむ)天皇の御発意により、次の第四十一代持統(じとう)天皇の四年(六九〇)に皇大神宮の第一回目の御遷宮が行われました。以来、長い歴史の間には一時の中断(戦国時代)はありましたが、二十年に一度繰り返されて、平成二十五年には第六十二回目の御遷宮が行われ、来る令和十五年には第六十三回目の御遷宮が行われます。
 遷宮とは、新しいお宮を造って大御神(おおみかみ)にお遷(うつ)りを願うことで、式年とは定められた年を意味します。神宮には内宮・外宮ともそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、二十年に一度同じ形の御社殿を交互に新しく造り替えます。また神さまの御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)も新しく調製されます。

式年遷宮のこころ

 明治時代のことです。当時の芳川内務大臣と田中宮内大臣の二人が、神宮の式年遷宮に必要な御用材の不足を理由に、土台に礎石を置き、コンクリートで固めれば二百年は保つことが出来ると、明治天皇に上奏(じょうそう)しました。
 明治天皇は、この上奏をお聴きとどけになられないで、質素な御造営に祖宗建国の姿を継承すべしと、お諭(さと)しになられ、二十年ごとに斎行される式年遷宮の大切さをお説きになりました。
 明治天皇は次のような御製(ぎょせい、天皇が詠まれた和歌)をお詠みになっておられます。

 いにしへの姿のままにあらためぬ
      神のやしろぞたふとかりける

 こうした意味からすれば、この式年遷宮の制度こそは、天武天皇が崇高なご精神でお定めになって以来、万代不易の制度として伝えてゆかねばなりません。
 この制度が確立された時代の歴史的な背景を考えてみますと、仏教や儒教など外来の文化を積極的に受け入れた文明開化の花盛りでした。こうした中で、日本固有の文化を堅持し、日本本来の精神を自覚する、最も確かな方法が、この式年遷宮の制度であったのです。
 二十年に一度、御社殿を新しく造り替える式年遷宮は、皇租の天照大御神が常に瑞々(みずみず)しくあってほしいと願う表象でありますが、また同時にそこには、私たち日本民族の「いのちの甦り」の祈りが込められているといえるでしょう。

二、遷宮の意義

世界が称賛する日本民族の叡智(えいち)

 神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)は「皇家(こうけ)第一の重事(じゅうじ)」といわれ、戦前は国費で行われていた、日本の国にとって極めて重要なお祭りです。
 神宮の建物は、掘立柱(ほったてばしら)に萱葺(かやぶ)き屋根という素朴で清純な建物です。神道は清らかさを重んじますが、大御神(おおみかみ)さまに常に清浄な所にお鎮(しず)まりいただくために遷宮は行われます。
 常に瑞々(みずみず)しく、尊厳を保つことによって、神さまの御神徳(ごしんとく)も昂(たかま)ります。その御神威(ごしんい )をいただいてこそ、私たちの生命力が強められるという、日本民族の信仰心の表れととらえられています。
 日本の「木の文化」に対し、西洋は「石の文化」といわれます。エジプトのピラミッドやギリシャの神殿などのように、ヨーロッパや中近東では、石を用いて建築物や工芸品を作りました。建てたときは永久不滅のものだったのでしょうが、その多くが今では廃墟になっています。しかも、建物が壊れて廃墟になっただけではなく、それを作った技術、さらには、信仰や精神も消滅してしまいました。
 一方、日本民族は、物も心も有限であるという考え方を基底にもっています。有限であるがゆえに、たえず新しいものに更新し続け、確実に後世に伝えていくという努力と作業を繰り返してきました。つまり、命の継承といえます。結果として、物が常に瑞々しい形を保ち続けるとともに、技術も継承され、物も心も永く久しく伝えることができるのです。
 式年遷宮の思想は日本民族の叡智(えいち)として世界から賞賛されています。

三、式年って、どんな意味?

なぜ二十年目ごとにお宮を建て替えるの?

 「式年(しきねん)」とは「定められた年」という意味です。二十年に一度というのは、人生の一区切りと考えられ、技術や思想を伝承するためにも合理的な年数とされています。御社殿の建築に携わる宮大工をはじめ、御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)をつくる職人たちが技法を学び、技術を高め、その技術を若い弟子に伝えるためには年月が必要です。二十代で入門して、技術を習得し、四十代で熟練工として活躍し、そして六十代で指導者になるという営みを繰り返してきました。
 式年遷宮が行われた第四十一代持統天皇の御代(みよ、約千三百年前)には、世界最古の木造建築として今なお現存する法隆寺は、すでに建造されていました。当時の技術を持ってすれば、半永久的な御社殿を造ることが出来たはずです。しかし神宮では、二十年に一度、御社殿を造り替え続けていく式年遷宮の制度を守り伝えることで、日本の文化を絶やすことなく次の世代に伝え、「悠久」を目指しつづけているのです。

四、遷宮の準備

こんなに大変なの?

【どんな組織で準備するの?】

 式年遷宮(しきねんせんぐう)は国を挙げての最大のお祭りです。しかし、戦後は政府と神宮の関係が断たれましたので、国民の真心込めた浄財によって御奉賛申し上げる事になりました。ちなみに第六十二回式年遷宮には約五百五十億円の費用がかかり、そのうちの三分の一程度を募財しました。
 具体的には、神宮大宮司を総裁とする「神宮式年造営庁」が神宮司庁内におかれ有識者からなる大宮司の諮問機関「遷宮委員会」が設置されます。さらに「(財)伊勢神宮式年遷宮奉賛会」が結成され、各都道府県においてもの地区本部が組織化されます。皆さんの地元の神社の神職・総代が、奉賛をご依頼の際には、ご協力をお願い致します。

【どんなお宮を建て替えるの?】

 式年遷宮において新しくなる建物は、皇大神宮、豊受大神宮の御正殿と、東宝殿・西宝殿・御饌殿(みけでん)・外幣殿(げへいでん)・四丈殿・宿衛屋などの殿舎に、これらを取り囲む四重の御垣と御門、そして十四の別宮です。
 遷宮に必要な御用材の檜は約一万平方メートル、一万本あまりです。なかには直径一メートル余り、樹齢四百年以上の巨木も用いられます。屋根に葺く萱(かや)は二万三千束、神宮の萱山で十年がかりで集められます。昔は神宮備林が木曽の山にあったのですが、今は国有林となり、次第に良い材料調達するのも困難になっています。そこで、神宮では大正時代の末から二百年計画で神宮宮域林において檜を育成しています。宮大工や、屋根を葺く職人の養成など、技術的な伝承についても考えなければなりません。

【装束・神宝の調製ってどんなこと?】

 式年遷宮には約八百種、千六百点の御装束・神宝を古式により新しく作りお供えいたします。これは平安時代に定められ、その時代の最高の刀工、金工、漆工、織工などの美術工芸家に調製を依頼します。太刀の原料の玉鋼(たまはがね)も入手困難ですし、砂鉄をたたらで操作する和鉄精錬の技法も継承者が少なく、草木などを用いる染色家も少なくなり、技術の保全が実に困難になっており、やはり伝承技能の維持・継承が大きな課題となっています。
 いずれにせよ、当代の至高の材料・技術をもって大御神さまにお供えするということは、伝統文化・技術の継承であり多くの国民の誠の結晶であることにはかわりありません。

【どんなお祭りが行われるの?】

 「式年遷宮」は、建て替えのご用材を山から伐り出す安全を祈る山口祭というお祭りを皮切りに、「遷御(せんぎょ)」の儀が行われるまでの八年間にわたって数多くの祭典や行事が行われます。
 遷御の儀は、今の御社殿から新しく立て替えられた御社殿へ大御神さまにお遷りいただくお祭りで、夜すべての灯りが消された浄闇(じょうあん)の中、百名を越える束帯や衣冠に身を包んだ奉仕者が付き従い、荘厳な古代絵巻が繰り広げられます。

五、遷宮の奉賛

わたしたちが参加できる遷宮行事

 「式年遷宮(しきねんせんぐう)」には、たくさんの祭典や行事がありますが、一般国民が参加できる行事は二つあります。「御木曳(おきひき)行事」と「御白石持(おしらいしもち)行事」です。この二つの行事は、数ある遷宮の行事の中でも、唯一私たち国民が関わることができる行事です。

【御木曳(おきひき)行事】

 「御木曳(おきひき)」とは、木曾の山から伐(き)り出され、伊勢に運ばれたご用材を内宮と外宮に曳(ひ)き入れる行事です。第六十二回の遷宮では、平成十八年五月から六月にかけて、十五日間外宮で行われ、七月に四日間内宮において行われました。そして平成十九年五月から七月にかけて、前年同様内宮と外宮両宮において行われました。
 御木曳(おきひき)には、五十鈴川をさかのぼる内宮の「川曳(かわびき)」と、宮川から旧参道を曳く、外宮の「陸曳(おかびき)」とがありますが、いずれの奉仕者も木遣り(きやり)歌や、道中での奉祝舞踊などの稽古を重ね、二見浦(ふたみがうら)で心身を清める「浜参宮(はまさんぐう)」を済ませて御木曳に奉仕する、という姿は変わりません。白無垢に揃いのハッピ姿で木遣り(きやり)歌をうたい「エンヤ、エンヤ」のかけ声も勇ましくご用材を曳き入れるさまは、式年遷宮に奉仕できる人々の喜びと感激が満ちあふれる勇壮な行事です。
 本来は神領民(しんりょうみん、地元の人々)だけの行事でしたが、国民こぞっての奉仕の誠を捧げるという意味で、前々回、昭和四十八年の第六十回の遷宮から一般の人々も奉仕できるようになりました。この第六十回の遷宮では全国の希望者の中から一万人、前回、平成五年の第六十一回の遷宮では、三万二千人以上の人が参加して陸に川にと、盛大な御木曳が繰り広げられました。

【御白石持(おしらいしもち)行事】

 「御白石持」行事は、新しい御社殿のまわりに白い石をひとつずつ丁寧に敷きつめる行事で、平成二十五年八月に行われました。
 内宮・外宮の遷宮に先立ち、新宮に奉献する行事が御白石持行事であり、中世以降、神領民の伝統行事として遷宮の年に行われてきました。その準備は数年前から始められ、それぞれに「御白石持奉献団」を組織して、宮川の河原でこぶし大の白い石を拾い集めて蓄えることから始まり、「御木曳」と同様に木遣歌の練習や町内の美化、二見浦での「浜参宮」などの諸行事を行います。一人一人が清浄な白布にお白石を包み、お祓いを受けたのちに木の香りもかぐわしい、新しいお宮の御敷地(みしきち)に奉献します。また、奉献後御礼参りのために「上り参宮」を行うことも御木曳と同じです。
 この行事は本来、神領民の行事でしたが、前々回、昭和四十八年の御白石持行事から一般の国民も参加できるようになりました。
 御白石持行事は、一般の人々が御敷地に入り、新しい御社殿を拝することのできるただ一度の機会でもあります。