第7章 先祖のまつり

日本人は死んだらどこに行くのですか?

一、日本人は死んだらどこに行くの?

日(ひ)の本(もと)に生(あ)れ出(い)でにし益人(ますひと)は 神より出(い)でて神に入(い)るなり (江戸時代の伊勢の神宮の神官 中西直方)

 「祖先の神があってこそ生まれ出た自分、その自分もやがては祖先の神のもとへと帰っていくのだ。」というこの歌は、日本人の死についての昔からの考え方を明確に表現しています。民俗学の草分けといわれる柳田国男は、著書『先祖の話』のなかで、「日本人の死後の観念(かんねん)、即ち霊(れい)は永久に、この国土のうちに留まって、そう遠方へ行ってしまわないという信仰(しんこう)が、恐らくは、世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられている」と述べています。
 つまり、日本人にとって、「死ぬ」ということは、仏教で説いているように、十万億土(おくど)のかなたに消え去っていくということではないのです。死後、人はやがて祖霊(それい)となり、さらに祖先神(そせんしん)へと昂(たかま)っていき、この世の子孫の生活を見守っていて下さると考えてきました。
 ここで、日本人の「死」についての観念をもう少し詳しく考えてみましょう。

二、死んだらすぐ神さまになるの?

 皆さんのお住まいの近くに、ハヤマ(葉山・羽山・麓山・端山・早山等)とよばれている地名や小高い山・丘はありませんか。古くより、私たち日本人の「霊(みたま)」に対する考え方は、人は死後、はるか彼方(かなた)へと旅立つのではなく、生前に家族と一緒に暮らしていた家を望むことのできる場所、つまり、小高い山、しかも始めは山頂ではなく、麓(ふもと)に近い峰の端(はし)っこ、つまり「端っこの山」=「端山(はやま)」へと往(い)き、歳月とともにしだいに高い山に遷(うつ)っていくと考えてきました。その祖霊(それい)は、子孫の行う「祭(まつ)り」(冠婚葬祭のうちの「祭」で先祖祭りの意味)を受けることにより、歳月とともに浄化(じょうか)され、子孫を守り、家を守る「氏神(うじがみ)」として、またその土地・地域をもお守り下さる「産土(うぶすな)の神」として昂(たかま)っていかれるのです。

三、「神」と「ほとけ」

 民俗学の世界では、亡くなってから間がない人や、不慮の事故、異状死を遂げた人は「ほとけ」と呼ばれても決して「かみ」とは呼ばれません。しかし、死の穢(けが)れの清まる期間を経て、(三十三年、地方によっては五十年)弔(とむら)い上げを済ませた「ほとけ」は「かみ」となるのです。「ほとけ」はひとの個性がまだ残っており、この世に未練がありますが、死者から個性が消え、祖霊として一括される神性を獲得すると無条件に子孫を包み込む神と昂(たかま)っていくのです。
 ここで重要なのは、人の御霊(みたま)は、歳月の経過によって、浄化されるとともに、家族をはじめ人々からの「まつり」を受けることによってさらに浄化と昇華をし、神格性を持つということです。稲魂(いなだま)を育て、水を配り、子孫の生活を温かく見守る守護神・氏神となるのです。

四、祖霊崇拝(それいすうはい)って、仏教の渡来以前からあるの?

 「草葉(くさば)の蔭(かげ)から見守る」という言葉がありますが、ご先祖さまの御霊(みたま)は、常に私たちの身近にいらっしゃって、私たちを見守っています。この祖霊(それい)を慰め、霊威(れいい)が昂(たかま)っていただくために行う「祭(まつ)り」を「先祖まつり」といいます。お盆や春秋のお彼岸の行事などは、今では仏事のように一般には思われていますが、祖霊(それい)をおまつりすることは、もともと仏教にはない我が国の固有(こゆう)の習俗(しゅうぞく)です。

五、お彼岸やお盆はもともと神道の行事なの?

 仏教が日本へ伝来したのは六世紀半ば頃といわれていますが、この時に伝わってきた仏教は、インド発祥の本来の性格とは異なり、中国・朝鮮など経由してきた地域の影響を色濃く受けたものでした。その後、我が国の神祇(じんぎ)信仰や祖先祭祀(さいし)の影響を受け、これを取り入れたために、仏教は日本の宗教の一つとして、広範に普及することができました。「彼岸会(ひがんえ)」という言葉は、世界最古の小説ともいわれる「源氏物語」にも見られることから、かなり古くから行われてきた行事と思われますが、実は我が国での「先祖まつり」は、かなり以前から行われていました。古事記・日本書紀にも皇祖(こうそ)の御霊(みたま)をまつった例が見られ、現在でも宮中では、歴代天皇(れきだいてんのう)の霊をまつる行事(春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)・秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)が厳粛に行われています。
 このようにお彼岸は、仏教渡来以前からの日本古来の祖霊信仰が深く根づいているのです。「お彼岸」は、今日ではお墓参りをして先祖の供養(くよう)をする日とされています。ところが、こうした行事の意味を知らずに、休日であるからといって結婚式を挙げたり、行楽に出かけたりする方を最近多く見受けますが、このようなことは慎まなければなりません。春・秋の中日は、お墓参(はかまい)りをしてご先祖さまをお慰めし、感謝をする大切な日であることを忘れてはなりません。

六、お盆と正月って同じ行事なの?

 お盆(ぼん)の行事は、旧暦七月十五日を中心とする、もともとは祖霊(それい)をおまつりする日本古来の神道の行事で、現在では新暦の八月に行う地方もあります。各家庭のご先祖さまが「精霊(しょうりょう)」として帰ってこられるのをお迎えし、手厚くもてなすために、盆棚(ぼんだな)を飾り、提灯(ちょうちん)をともし、門口に迎え火を焚(た)き、花や手料理を供えて、家族皆でご先祖さまをお慰(なぐさ)めします。盆踊りも精霊をお慰めする行事の一つなのです。ところが、仏教を布教(ふきょう)するため、日本古来の七月の祖霊祭(それいさい)に、仏教の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」を結びつけたために、現在では仏事であるかのように思われているのです。
 きわめて古い時代の日本では、旧暦の一月十五日と七月十五日ごろの満月を中心として、年に二回、神さまのご来臨(らいりん)を願い、祖霊(それい)の祭りを行っていました。私たちは、大層にぎやかな時、あるいは楽しい時には「盆と正月がいっぺんに来たようだ」などと表現しますが、実は「お正月」は、祖先神(そせんしん)や歳神(としがみ)さまといった「神々」をお迎えして行う「お祭り」であり、一方「お盆」は、祖先神までには昂(たかま)っていない「精霊(しょうりょう)」をお迎えして行う「お祭り」なのです。ともに、感謝と祈りを捧げるための対(つい)をなすお祭りです。それゆえに、お盆の行事とお正月の行事は、ほとんど共通する要素からなっています。

七、仏式の葬儀は死者の慰霊ではないの?

 仏壇の飾付を見ますと、中央最上段に本尊仏(ほんぞんぶつ)が安置され、その手前下段に「位牌(いはい)」が置かれています。このことは何を意味しているのでしょうか。仏式葬は、天台宗、真言宗、曹洞宗では「得度式(とくどしき)」を意味しており、日蓮宗では、日蓮聖人の元へ送り出す「引導(いんどう)」が中心となり、浄土真宗では阿弥陀仏の本願力(ほんがんりき)によって、救われることを祈る「勤行(ごんぎょう)」の形式になっています。つまり仏式葬は、仏の教えを聴(き)き学び、仏の徳を称(たた)え、帰依(きえ)して僧侶になるための「出家(しゅっけ)の儀式」なのです。
 多くの方は、日々仏壇(ぶつだん)のお釈迦様(しゃかさま)ではなく、ご先祖さまに祈り、お盆やお彼岸にはお墓参りを行います。本 来仏教では現世(げんせ)の煩悩(ぼんのう)から人々を救うことが目的であり、そのためには、現世への執着(しゅうちゃく)を断つことが必要なのですから、極楽(ごくらく)に行ってしまえば、死者の霊の居場所となる仏壇・位牌やお墓は要らないはずです。仏式葬を行われても、ほとんどの方は、死者が仏弟子となって修行に励んでいるとは考えていないでしょう。また、仏壇は死者が仏弟子(ぶつでし)となるための修行の場であり、お墓は死者の記念碑・遺品倉であるとは考えていないでしょう。そこは、死者・祖霊(それい)の鎮まる「神聖(しんせい)な所」と考えるのが日本人の素直な感情なのです。死者の霊・祖霊(それい)は、私たちの生活する場の近くにとどまり、お盆には毎年、家に帰って来られると信ずるからこそ、盆棚(ぼんだな)を作り、迎え火(むかえび)を焚(た)いてお盆の行事を行うのです。
 お盆の心とは、亡くなられた方の霊、ご先祖の霊が、心おだやかに鎮(しず)まられるように慰霊を行い、先祖(せんぞ)の霊に感謝の誠を捧げ、家や家族をお守り下さるよう祈ることでありましょう。この心こそは、まさに日本固有の神道の「祖先崇拝」の考え方なのです。

コラム

私たちは「いのち」をつなぐリレー選手

 近年、若者の心の乱れと、それによって引き起こされる、悲惨で凶悪な事件が大きな社会問題となっています。
 若者に、心のなかに崇高(すうこう)な理想をえがき、人生を充実させながら社会で立派に活躍して、美(うる)わしい幸せな家庭を築いていただくために、私たちに課せられた責任には大きなものがあります。
 日本人は遠い昔から、神さま、ご先祖(せんぞ)さまを敬い、感謝をする心を大切にしてきました。平穏な生活に感謝をしたり、日々の出来事を報告するなど、神棚(かみだな)や祖霊舎(みたまや、仏壇)に頭(こうべ)を垂れ、手を合わすことは、ごく自然な感情であり清らかな心のあらわれでもあります。 このような「敬神崇祖(けいしんすうそ)」の心をもって、神社のお祭りを守り伝え、あるいはお墓参りやご先祖の祭りを行ってきましたが、お祭りを行う大きな意義とは「感謝(かんしゃ)と慰霊(いれい)」の誠を捧(ささ)げることで神さまやご先祖さまと、自分との間の命の繋(つな)がりを確認し、家族の絆(きずな)を深めていくことにあります。
 親を通じて、遠いご先祖さまからの命を継承している私たちは、また社会的存在として決して一人で生きているのではありません。自分を取り巻く、家族や地域の人々とのいろいろな関係のもとに日々の生活を送っているのです。
 古来、日本人は家族や地域の共同体の「和」を大切にし、名誉を重んじてきました。何気無い不用意な自分の行為が、家族や地域の人の和を損(そこ)なわないように、自分を律(りつ)する自制心を高めるために、常に身を修(おさ)め、家を斉(ととの)えてきたのです。
 近年は個人主義の考え方が非常に強くなり、遠いご先祖から続いてきた家の意識や家族や親族の絆(きずな)の意識が希薄になってきています。その結果、自分さえよければ、他人の苦しみや痛みをまったく無視するような風潮さえ生じてきました。被害者と加害者の間に、なんの関係も見られない殺傷行為や、社会に対する犯罪の多発傾向は、まさにこのことを証明しているように思えます。
 また、経済優先・物質万能主義による現代人の生活形態は、限りある界観天然資源を枯渇(こかつ)させ、環境を破壊させて止どまる所を知りません。
 日本人は、「人もまた、自然の一部である。」という世界観(せかいかん)のもとに、自然に優しく抱かれながら、山川草木はもとより、すべての生きとし生けるものと共に、生活をしてきたのです。
 人の心に自制心を回復し、共生の思想の重要性に気付くために、いま「お祭り」の効果に大きな期待がよせられています。